上山友裕 Ueyama Tomohiro 28歳
パラアーチェリ―日本代表
出身:大阪府東大阪市
生年月日:1987年8月28日
所属:三菱電機
パラアーチャー誕生
東大阪出身の上山友裕選手。
2010年、社会人1年目の冬に原因不明の両足の麻痺を発症、そこから徐々に両足の機能は失われていきました。
障害を持ちながらアーチェリー競技をを続けていた上山選手は、車いすに乗りながら弓を引くパラアーチェリーに転向します。
「障害を持ったから日本代表になれた」と笑顔で答えるその言葉通り、上山選手はリオ・パラリンピック出場を目標に定め、毎日の練習に打ち込み、日本を代表するトップアーチャーへと成長しました。
リオパラリンピック出場条件は3位以内
6月、チェコで行われたリオパラリンピック最終選考会。
上山選手が出場権を獲得するためには大会の上位3位以内の成績を残さなければなりません。
優勝して出場権を獲得するつもりで挑んだ大会でしたが、準決勝で敗れ、3位決定戦へと進むことになります。
相手はロンドンパラリンピック出場のオランダのボトムリー選手。
上山:絶対に勝ってやろうという気持ちはもちろん向こうにもありますし、自分も絶対に勝ってやろうという気持ちもあったんですけど、自分が予選1位の点数を打っていて、相手は僕より下だったので。自分のほうが相手より実力がある、あとは気持ちの問題やっていう思いで、末武コーチを信頼しきっていたので、全部言うことを聞いてやろうとしました。
リオ行きの切符を賭けた一戦は一進一退の攻防でお互い譲らず。最終第5セットへともつれ込みます。
2本ずつ打ち終えた時点で上山選手は15点、ボトムリー選手は14点と1点差。
上山:相手の的をあまり見れていなかったというか、音しか聞こえていなかったんです。自分が打って末武コーチの声を聴いて「左何点です」っていう、たぶんスコープは見ていなかったんです。ただ相手のコーチが、そういえばナイスショットって言ってないよな・・・っていうのは思っていました。
自分自身も正直7点、8点だったんで的を外していたんですね。僕は左左だったんで、「あともうちょっと右に打てれば、さっきの感覚通りに右に流せば黄色に入る。9点、10点に入るから」という気持ちで最後の3射目は打ったんですけど。
運命のラストショットが的に刺さった瞬間、末武コーチの「ナイスショット!」の声が会場に響きます。上山選手の3本目の矢は見事10点を射抜きました。
上山:コーチ陣が10点!って言って盛り上がって、ナイスショット!ナイスショット!みたいに言われたときに、10点に入ったんだっていうのは分かりました。
でも、もう何かしらいろんなもんが混じっていて、とりあえず相手の点数を見たときに、7-7って打っていて「7-7だから、えーっと・・・あれ計算できひん」みたいな。自分が7-8-10の25点だから・・・あれ、勝ったんちゃうか?思って、後ろを見たときに末武コーチが、待って待ってみたいな感じで言われて、そこで「これは勝ったんちゃうかな」ってだんだんだんだん実感してきた感じでしたね。
ボトムリー選手の3本目のショットも10点を射抜き、結果的には1点差の僅差で、上山選手がリオパラリンピックの出場権を手にしました!
試合が終わり、ほっとした上山選手の目からはあふれ出す涙。
ここまでのしんどかった思い、出場権を獲得した喜び、そして1年前に亡くなったお父さんへの思いなど、いろんな感情が上山選手を包みました。
夢の舞台、目標はベスト8
パラアーチェリ―を始めて6年でつかみ取ったリオパラリンピックの出場権。
チェコでの最終予選で感じたのは、この大会に不参加だったリオ確定組もいれて計算すると僕は9位だったんですね。ベスト8をかけた戦いの中で1点差1点差の勝負が続いて最後は1点差で負けたという形だったのでベスト8の壁を破ればその先メダルまで1点差の勝負が続くんですよ。なので、まずはベスト8。そこをしっかりと取れるかどうかが、今回のリオデジャネイロ目標です。そののちのメダルにつながるかどうか、入賞で止まるかもしれないですけど、メダルにつながるためにはベスト8の壁を超えないといけないなって思っています。
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